引用をスッとできる人に憧れている
お気に入りのPodCastとして、「超相対性理論」、「To The Lighthouse」 というPodCast番組がある
具体と抽象を行き来しながら、一つの事柄を、さまざまな角度と尺度とから見つめる。すると、同じものも、少し違って見えてくる。
観測点や参照点を増やすことで、知と知を星座のように結びつける。浮かび上がる新しい星座について、みんなで語りあい、考える。
それをなぜか、「超相対性理論」と名付けました。
メインパーソナリティの学びデザインの荒木博之さんとTakramの渡邉康太郎さんのお二人がゲストを迎え、ゲストの方が持ち寄ったテーマについてあれやこれや話すという番組
To The Lighthouse - 視点と生活のラジオ - | Podcast on Spotify
京都の哲学者、谷川嘉浩、身近なことから雑談するラジオ。
視点の間を漂いながら、 哲学が案内する方へ、灯台へ向かっていきます。ひとりの夜に、聴いてください。
哲学者の谷川さんが雑談的に一人語りをする番組
どちらの番組も、各回興味深く拝聴させてもらっているが、3人にある側面で共通しているのが、引用力(?)だと思っていて、毎回凄まじく、自分もこうなりたいなぁと感嘆させられるので、それについて書いてみる
書籍名はもちろん、著者や出版社までスッと出てくる
テーマについて語り合っているときや、雑談をしている中で「〇〇さんが書いた△△という本に××という一節があって〜」というフレーズが頻繁に出てくる
あまりに滑らかに出てくるので、いつもどうやって脳にインデックスしてるのか不思議に思っている
自分の場合は、ギリギリ書籍名は連想で出てくることはあるが、「××的なことを言ってたと思うんですけど」みたいな感じで、ニュアンスでしか引用できない
PodCastという収録の場だから、引用できる環境はある程度整っているかもしれないけれど、それでも聞けば聞くほど、何か例えばパソコンを検索してメモを引っ張り出してるというよりは、会話の流れの中で自然と覚えていたことを発言しているように聞こえる
谷川さんの場合は、物理的な本を棚から引っ張り出してきて「引用して読みますね」と言って読み出すシーンがあるから、まあそれはそうなんだけど、それでも "あの場面を引用しよう" というフックがあるわけで、明確に物理的な本のどのあたりという脳内インデックスは存在していることが窺い知れる
これは多分、意識せずに自然とできる領域を超えているように感じていて(自然にできているのだとしたら、もう才能と言って差し支えないかもしれない)、自分にも再現性がないかな〜というのを考えてみたい
読んだ本にマーカーを引く・メモをとる
読書をするときは、本にマーカーを引いている
具体的には、私は電子書籍派なので、Kindleのマーカー機能を使ってのマーカーになるが、引用した箇所は読了後にまとめてObsidianに転記したりもしている
それだけだと記憶に残らない、、ということを過去に何度も経験しているので、なるべく読みながら思ったことをメモしておくこともしている
なので、本を読んだら、引用リストのノートとメモや感想文のノートと2つができあがる
ということで、読んで終わりというわけではない
しかし、それ以上の活用というところに一つの隔たりがある
引用したことやメモしたことは忘れているので、その引用リストやメモのノートを再び開くまでは、なかなかそれを思い出すことはできない
会話の中でそれを引っ張り出すような機会は少ない
そもそも会話してない
いきなりなんだという感じだけど、思い出して引用しようというモチベーションが湧く機会がおそらく少ない
読んだ本について語る場に自分がいない
読書が、かなり個人的な行為になっている
人とのコミュニケーションの中で読んだ本について言及するような会話になることがかなり限定的
これは、自分が読んでいる本が、小説など趣味的なものが少なく、哲学的なものだったり、ビジネス書、技術書が中心で、そんなコアな話を日常的にしないということがある
最近読んだ本 (2025/05) (今となっては全然最近ではないけれど)
しかし "そういう機会がないから" というのでは理由として弱い気がする
(自分で言っておきながら少しだけ癪に触るというか、環境が整ってないからできませんと言っているようでちょっとこのまま結論とするのは許容し難い)
なぜなら、職場での1on1などで言及しようと思えばおそらくできるから
家族との会話の中でも、思い出して「△△という本でこういうことを言ってたんだけど〜」ということはできるはず
言及したくない自分・SNS的な目線の内在化
上記のようなことをAIに壁打ちしてもらっていたら、あなたは他者のなんらかの言説を言及することについて自分で自分に許可していないのでは? という指摘をもらった
確かに、、とぐうの音も出なかった
二つある
一つは、多分だけど、その場のノリや空気を読むことに必死だった学生時代をそのまま引きずっているのかもしれない、という思いに至った
つまり、相手が読んでなさそう、あるいは興味なさそうな本について言及するのは、なんだか申し訳ないという後ろめたさがある
もう一つは、例えばブログなどで引用して、その人に言及することは、もはやコミュニケーションの始まりだという意識が働いて、見知らぬ人から言及されたら不快ではないかな、、というところに心理的抵抗がある
言及しているその人が言わんとしていることを誤解されるかたちで別の誰かに伝えてしまわないかという不安もある
つまり引用という行為はリスクが高い行為だと認識している自分がいることに気づいた
加えて、ダラダラとSNSを見ていると、なんらかの言説に対して、批判的な投稿がバズっていることが日常茶飯事で、それを当たり前のように毎日毎日摂取している
あまり自覚的ではなかったが、そういう目線を多少なりとも内在化している自分がいるのでは? とも感じた
対岸の火事だと思ってたらそうでもなかった
引用を自分に許可する
しかし、先に挙げたリスクは往々にして、幻想であることが多い
もちろんリスクがゼロというわけではない、何事もそう
でも、それで発信や発言を止めてしまうのでは、機会損失が発生しているだろう
ちなみにObsidianには日々感じたことをメモしたりもしているのだけど、そこでは結構普通に引用が出てくる
他者の目がなければ、自分は自由に引用できることを改めて認知した(これもAIにObisidianを読ませて指摘されて自覚的になれた、AIすごい)
早速引用するけれど、この「自分に許可を出す」という概念は、桜林直子さんの「つまり"生きづらい"ってなんなのさ?」から得たもの
つまり”生きづらい”ってなんなのさ? | 桜林直子 |本 | 通販 | Amazon
変える前に、「変えてもいいのだ」と自分に許可を出す必要もあるので、そこからですね。
いわゆる自己肯定感が低い人が、自信を取り戻そうと思ったら、まず自分は変わってもいい、と許可を自分で出すところがスタートということをおっしゃっていて、そこを飛ばすとなんらかのチャレンジは多くの場合失敗し、失敗体験として積まれてしまう
卑屈になっているときの自分はまさにそんな感じなので、これは意識的になっておいた方がいいなと思っている
引用を自分に許可する、というところからスタートしないと、引用をスッとできるようになんて全然なれないという認知からスタートするのが大事だな〜というのが気づきでした、おわり